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仙巌園から見る桜島と錦江湾は絶景。桜島は毎年1000回以上噴火を繰り返しているという |
ペリーの黒船来航で日本中が大騒ぎになる2年前から、他藩に先駆けて産業近代化を行っていたのが薩摩藩第11代藩主の島津斉彬(なりあきら)。斉彬は、「集成館事業」と呼ばれる造船、製鉄、紡績の3大事業を中心に近代産業の育成を目指した。同事業は後に日本が産業近代化を図る中で礎となっていく。政府がこのほどユネスコへ世界遺産登録を申請した「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」のうち、旧集成館などの産業遺産を鹿児島市に訪ね、斉彬が進めた集成館事業の往時をしのんだ。
桜島と錦江湾
南国・鹿児島の代名詞ともなっている桜島と錦江湾—。斉彬は桜島を築山に、錦江湾を池に見立てた庭園、仙巌園(せんがんえん)をこよなく愛したという。「魚釣りが好きだった斉彬。残された宿直日記の中に魚釣りの記録が度々出てきます。魚釣りがストレス発散になっていたのではないでしょうか」と尚古集成館副館長の松尾千歳さん(54)は話す。
仙巌園は第2代藩主の島津光久の別邸として建てられた庭園で、桜島を見る絶好のビューポイントとして今も観光客に人気がある。同園は薩摩藩、鹿児島県の迎賓館のように使われ、篤姫(天璋院)や勝海舟、ロシア皇帝ニコライ2世らが訪れている。 |
当時の機械工場
旧鹿児島紡績所の建設と操業指導のために招いた英国人技師のために建てられた異人館 |
仙巌園に隣接して立地しているのが、斉彬が進めた集成館事業の工場群跡だ。軍艦などの造船事業や大砲の鋳造を目的とした製鉄事業、船が帆走するための帆布を製造する紡績事業、あるいはサツマキリコなど輸出商品の開発など、さまざまな事業が推進されていた。
当時、機械工場だったのが現在の尚古集成館本館(国重要文化財)。薩摩の技術者が蘭学書を頼りに自力で建てたと思われる洋風建築構造の屋根裏やオランダ製(1863年)の形削り盤、それらの機械類に蒸気機関の動力を伝えて動かしていた大きな歯車などが展示。現存する日本最古の西洋式機械工場として当時の姿を伝えている。
初期の洋風建築
また、尚古集成館から少し離れたところにある旧鹿児島紡績所技師館(異人館)は長崎市のグラバー邸に次ぐ、わが国初期の代表的な木造2階建ての洋風建築物。
日本最初の洋式紡績工場となった、鹿児島紡績所の建設と操業指導のために英国から招いた6人の技師たちの宿舎として建てられた。四方開放のベランダを付けたコロニアルスタイルの外観というモダンな造りだ。しかし、ドアノブの取り付け位置が低すぎるなど、所々に当時の洋風建築物に対する知識の乏しさがうかがわれ、建てた人の苦労がしのばれる。
この集成館事業の成果が試されたともいえるのが1863(文久3)年に起きた薩英戦争。錦江湾に来航した英国の軍艦7隻と薩摩の砲台に設置されていた大砲が互いに発砲。薩摩は砲台とともに集成館事業の工場群が大破、人口18万人の城下町が炎上するなどの被害を出した。一方、英国側も旗艦ユーリアラスの艦長と副官が戦死するなど死傷者63人を数えた。この戦争を契機に理解を深めた薩摩と英国はその後、親善関係を築いていく。
薩英戦争時に斉彬は亡くなっていたが、その薫陶を受けた西郷隆盛や大久保利通らが遺志を受け継ぎ、近代日本の建設に突き進む。 |
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鹿児島の「明治日本の産業革命遺産」の問い合わせは鹿児島市東京事務所かごしまプロモーション推進室
Tel.03・5226・5040 |
【明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域】
19世紀後半から20世紀初頭にかけての急速な重工業分野の産業近代化を産業遺産で証言する。同産業遺産は九州・山口地区を中心に8県11市の関連地域に分散しているが、鹿児島では旧集成館、旧集成館機械工場、旧鹿児島紡績所技師館などが対象。来年夏に世界遺産委員会で可否が審議される。 |
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