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墓参り |
「暑さ寒さも彼岸(ひがん)まで」とよくいいますが、秋と春の彼岸を過ぎると過ごしやすい季節になり、昔は作物の種まきも春の彼岸が目安とされました。
彼岸の語源は、サンスクリット語のパーラミター(波羅密多=はらみつた)で、「彼の岸へ到る」という意味です。彼岸は仏の悟りの世界(涅槃=ねはん)で、煩悩に満ちた此岸(しがん)とは別の、極楽浄土の世界といえます。しかし、彼岸の行事は仏教の中で元からあったものではなく、実は日本で生まれた行事です。
彼岸に仏教の法会が行われた早い例は、806(延暦25)年3月の「日本後紀」にある「崇道天皇の奉為に 諸国国分寺の僧をして春秋二仲月別七日 金剛般若経を読ましむ」という記事です。崇道天皇というのは桓武天皇の弟、早良親王のことです。785(延暦4)年に謀反の罪を負わされ淡路島に流される途中で死亡した後、怨霊となって次々とたたりを起こしたとされています。その霊を鎮めるために春分と秋分の前後7日間、諸国の国分寺の僧に金剛般若経を読ませる法会が行われたのです。
民間の習俗としては、彼岸団子やおはぎを作って、先祖の墓参りをすることが広く行われています。もう今では伝承も希薄になってきていますが、彼岸の7日の内に死んだ人は必ず極楽に行けるといわれたものです。この7日間は「極楽の門が開いている」とか、太陽が西の山に没するときに死者の霊も一緒に舞い込めるといい、「お彼岸さんに当たった」といって喜んだといいます。
この言い伝えの背景には、彼岸には真東から太陽が昇り真西に没することが関係しています。その太陽の沈むところに西方浄土への道があると考えられていました。
《国立歴史民俗博物館 教授 関沢まゆみ》 |
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